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東京地方裁判所 昭和61年(ワ)7826号 判決 1991年3月27日

原告

丙沢三郎

丙沢秋子

原告ら訴訟代理人弁護士

森田健二

吉峯康博

吉峯啓晴

中村晶子

相澤光江

木村裕

吉沢寛

蛭田孝雪

被告

東京都

右代表者知事

鈴木俊一

右訴訟代理人弁護士

石葉光信

右指定代理人

中村次良

外一名

被告

中野区

右代表者区長

神山好市

右訴訟代理人弁護士

山下一雄

右指定代理人

山口憲行

外二名

被告

甲野一郎

甲野春子

右両名訴訟代理人弁護士

大房孝次

被告

乙川二郎

乙川夏子

右両名訴訟代理人弁護士

高氏佶

篠原みち子

主文

1  被告らは、各自、原告らそれぞれに対し、各二〇〇万円及びこれに対する昭和六一年二月二日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  原告らの被告らに対するその余の請求をいずれも棄却する。

3  訴訟費用はこれを一〇分し、その一を被告らの負担とし、その余を原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  原告ら

1  被告らは、各自、原告らそれぞれに対し、各三〇〇四万七八〇七円及びこれに対する昭和六一年二月二日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員をを支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

との判決及び仮執行の宣言を求める。

二  被告ら

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

との判決(被告東京都においては、他に仮執行宣言を付した原告らの勝訴判決がなされる場合の担保を条件とする仮執行免脱の宣言)を求める。

第二  当事者の主張

一  原告らの請求の原因

1  (当事者の関係等)

(一) 丙沢太郎(以下「太郎」という。)は、昭和四七年三月一〇日、原告丙沢三郎(以下「原告三郎」という。)と同丙沢秋子(以下「原告秋子」という。)との間の子として出生し、昭和五九年四月一日、中野区立中野富士見中学校(以下「中野富士見中学校」という。)に入学し、昭和六〇年四月一日からは二年A組に属する生徒として同校に在学していたが、昭和六一年二月一日国鉄盛岡駅ビル地下一階男子便所内において、自殺により死亡した。

(二) 被告中野区は、地方自治法二八一条の規定に基づく特別区として中野富士見中学校を設置管理し、教育事務を行う地方公共団体であって、太郎が自殺した当時の同校の校長西川勲(以下「西川校長」という。)、二年A組の担任教諭藤崎南海男(以下「藤崎担任」という。)その他の同校の教員等は、当時、いずれも被告中野区の地方公務員であった。

そして、被告東京都は、市町村立学校職員給与負担法一条の規定に基づき、中野富士見中学校の教員等の職員の給与その他の費用を負担している地方公共団体である。

(三) 甲野和雄(以下「和雄」という。)は、昭和四六年九月一三日、被告甲野一郎と同甲野春子(右被告らを以下「被告甲野」という。)との間の子として出生し、また、乙川仁一(以下「仁一」という。)は、同年八月二二日、被告乙川二郎と同乙川夏子(右被告らを以下「被告乙川」という。)との間の子として出生して、いずれも、太郎と同じく、昭和五九年四月一日に中野富士見中学校に入学し、昭和六〇年四月一日からは二年A組に属していた同校の生徒であって、太郎が自殺した当時、太郎とは同級生であった。

2  (太郎に対するいじめとそれを原因とする自殺)

太郎は、中野富士見中学校の第二学年に進級してから昭和六一年二月一日に自殺するに至るまでの間、同校内及びその周辺等において、二年A組の同級生の和雄及び仁一をリーダー格とし、二年B組に属する中島修二(以下「中島」という。)、二年D組に属する高橋弘夫(以下「高橋」という。)、塚本清(以下「塚本」という。)、加藤英(以下「加藤」という。)その他数名を構成員とするグループ(以下「本件グループ」という。)から、継続的かつ反復的に、心理的及び物理的ないじめを受け、これに耐え切れずに前記のとおり自殺したものであって、その具体的ないじめの行為や太郎が自殺するに至る経過は、次のとおりである。

(一) 太郎、和雄及び仁一は、昭和六〇年四月の進級に伴う学級編成替えにより二年A組の同級生となったが、その後まもなく、和雄及び仁一を中心とした中野富士見中学校の生徒らによるいわゆる「突っ張りグループ」として本件グループが形成され、その構成員らによる他の生徒に対する暴行、授業抜け出し等の問題行動が顕在化するようになった。

そして、太郎は、同年六月頃から、次第に本件グループの構成員らのいわゆる使い走りを担う存在として同グループに取り込まれ、同年七月頃には、同グループの構成員らからいじめを受ける一方で、より激しいいじめを恐れてこれらの者と同調して授業抜け出し等の問題行動をとるようになり、第二学期が始まった同年九月以降には、同グループの構成員らによってジュース、菓子類の買い物や鞄持ち等の使い走りをさせられることが頻繁になった。特に、和雄及び仁一は、太郎に対して、再三にわたり授業抜け出しを命じたり、授業時間中又は休憩時間中にも使い走りを命じたりしたのみならず、太郎がそれを拒んだり、それに失敗したときには、太郎に暴行を加えるなどのこともあった。

(二) そして、本件グループの構成員らは、次のとおり、次第に太郎に対するいじめの度を増していった。

すなわち、和雄及び仁一は、同年一〇月頃、二年A組の教室内において、太郎のまばたきを激しくする癖を理由に、頭部を三回程殴打し、さらに、和雄及び仁一を含む本件グループの構成員六名は、同月下旬頃、語学教室前廊下において、太郎を取り囲み、仁一において、太郎の胸部に飛び蹴りを加えた。

また、塚本及び仁一は、同年一一月頃の休憩時間中に、二年A組の教室内において、フェルトペンで太郎の顔面に髭を落書きし、逃げたり抵抗したりすれば本件グループの構成員らから暴行を受けることになると恐れる太郎にそのままの姿で同教室前の廊下において踊らせるなどした。

(三) このような状況のもとで、和雄は、同年一一月一四日、太郎の死去を想定した追悼のまねごととして「葬式ごっこ」をすることを発案し、和雄が色紙を用意するなど中心となって、中央部に「丙沢君へ さようなら」と大きく書かれた色紙に二年A組又はその他の学級に所属する生徒四一名並びに藤崎担任、中野富士見中学校英語科担当教諭上嶋聰雄、同音楽科担当教諭小林新及び同理科担当教諭斎藤学の寄せ書き及び署名を得たうえ、同月一五日、二年A組の教室内の太郎の机上に花、線香等を添えて右色紙を置き、これを太郎に示した。

(四) 本件グループによる太郎に対するいじめは、右の「葬式ごっこ」を契機として校内で公然化し、一層執拗かつ陰湿なものとなっていった。

すなわち、和雄は、同年一一月二〇日頃、中野富士見中学校の教諭の目前で、太郎の上半身を裸にし、仁一を含む本件グループの構成員らは、同月下旬頃、太郎に対して、中野富士見中学校の一年生とけんかすることを命じた。

また、仁一は、同年一二月頃、体育の授業時間中に、同グループの構成員らと親しい関係にある中野富士見中学校の三年生らとともに、太郎に対して、校舎壁面の鉄パイプをよじ登ることを命じた。

さらに、仁一は、同月上旬頃、太郎に授業時間中に使い走りをさせたところ、太郎がその帰途に中野富士見中学校の教諭に発見されて、買ってきた品物を取り上げられたうえ、和雄及び仁一が右教諭から叱責を受けたことから、太郎に対し、失策の罰であるとして、二年B組教室前の男子便所内において、頭部及び腹部を手拳で殴打し、足で蹴るなどの暴行を加え、仁一及び塚本は、同月上旬の夜八時三〇分頃、中野区所在の栄町公園において、太郎に飲物を買いに行かせたところ、買って来た飲物が冷たかったとして、居合わせた二年A組の女子生徒二名の目前で、太郎の上半身を裸にしたうえ、凍てついたコンクリートの滑り台に仰向けに寝かせて滑らせたり、上半身裸の太郎に対して、口に含んだ水を吹きかけるなどの暴行を加えた。

また、和雄は、同月五日頃、太郎が使い走りをさせられた際につり銭を着服したとして、中野区所在の南部青年館の地下において、太郎の頬部を殴打するなどし、和雄及び仁一は、同月頃、太郎が使い走りを拒んだことを理由に、太郎の頭部を殴打した。

(五) 太郎は、同年一二月中旬頃以降、本件グループから離脱することを決意し、同月三一日から昭和六一年元旦にかけて、別の同級生らとともに、初日の出を拝むための東京都下の高尾山への自転車旅行を計画し、これに参加したが、和雄及び仁一を含む本件グループの構成員らは、太郎の右の行動や太郎が本件グループからの離脱を図ろうとしていることを知って、太郎に対して一層激しいいじめを加えるようになった。

すなわち、和雄及び仁一を含む本件グループの構成員ら数名は、本件グループからの離脱を図ろうとしている太郎に対して制裁を加えることを共謀したうえ、同年一月八日の中野富士見中学校の第三学期始業式の終了後、校舎屋上階段付近において、太郎が原告三郎に和雄らによるいじめの事実を告げたことや太郎が本件グループを離脱しようとしていることを理由に、太郎に対し、和雄及び仁一においてこもごも顔面を手拳で殴打し、足で蹴るなどして、耳からの出血を伴う傷害を負わせるなど、リンチとして暴行を加えた。

さらに、同グループの構成員らは、同月一三日にも、校庭において、太郎に対して、執拗な暴行を加え、また、和雄及び中島を含む本件グループの構成員ら四名は、同月二二日、五日間の欠席の後に登校した太郎とともに第二校時の授業時間を抜け出して校庭に赴き、太郎に対して歌を歌うことを強要し、中島において太郎を校庭のプラタナスの木に登らせ、和雄においてその木を揺さぶるなどした。

そして、本件グループの構成員らは、さらに太郎に対して暴行を加えることを共謀したうえ、同月三〇日、高橋が欠席を続けている太郎を学校まで連行し、高橋及び仁一が太郎を教室内に拘束するなどし、これを同校教諭手塚京子(以下「手塚教諭」という。)らに見つけられて太郎が教育相談室にかくまわれるや、本件グループの構成員数名は、校舎内の下駄箱から太郎の靴を取り出して、これを便所の便器の中に投棄した。

(六) 太郎は、これらの一連の和雄又は仁一の直接の実行行為によるいじめ若しくは和雄及び仁一をリーダーとする本件グループの構成員らによるいじめに耐え切れなくなって、同月三一日、かねてから家族とともに再三訪れたことがある原告三郎の実家のある岩手県に向けて旅立ち、前記のとおり、同年二月一日午後九時三〇分頃、国鉄盛岡駅ビル地下一階男子便所内において、次のような遺書を残して、縊死した。

「 家の人、そして友達へ

突然姿を消して、申し訳ありません

(原因について)くわしい事については和雄とか仁一とかにきけばわかると思う

俺だってまだ死にたくない。だけどこのままじゃ『生きジゴク』になっちゃうよ、ただ、俺が死んだからって他のヤツが犠牲になったんじゃいみないじゃないか。だから君達もバカな事をするのはやめてくれ、最後のお願いだ。

昭和六十一年二月一日

丙沢太郎 」

3  (被告らの責任原因)

(一) (被告中野区の責任)

(1) (債務不履行による損害賠償責任)

太郎と被告中野区との間においては、原告らが太郎の共同親権者として被告中野区に対し太郎の中野富士見中学校への入学を申し込み、被告中野区がこれを承諾することによって、教育諸法上の在学契約関係が成立したものというべきである。

被告中野区は、右契約に基づき、太郎に対して、諸教科の教授、生活指導等を行うべき義務を負担するだけでなく、右在学契約に当然に付随する義務として、太郎の教育活動中における生命及び身体の安全に配慮を尽くすべき義務を負うものというべきである。

そして、西川校長は、中野富士見中学校の全校的教育事項の審議決定権を有する職員会議への指導助言的参加と対外的代表及び表示を行う権限並びに各教師の教育活動の内容に関して教育専門的水準に基づく指導助言をする権限を有し、同校の管理運営について直接責任を負担する地位にあるのであるから、被告中野区の右義務の履行補助者として、全教師が一致協力していじめ根絶に向けて取り組む体制を確立する中心となることはもとより、自らも生徒間における事故の加害者又は被害者となるおそれのある生徒らの行動に細心の注意を払って、生徒間の事故により生徒の生命又は身体が害されることを未然に防止するために万全の措置を講ずるべき義務がある。

また、太郎を含む二年A組の生徒らと日常的に接触する立場にある藤崎担任は、被告中野区の右義務の履行補助者として、右生徒らの学校における教育活動及びこれと密接不離な生活関係の場において、個々の生徒の性格及び平素の行動を綿密に観察し、特に生徒間における事故の加害者又は被害者となるおそれのある生徒らの行動には細心の注意を払って、生徒間の事故により生徒の生命又は身体が害されることを未然に防止するために万全の措置を講ずるべき義務がある。

特に、当時は、昭和六〇年一月以降いじめを苦にしての小中学生の自殺が多発するなど生徒間のいじめが深刻かつ重大な社会問題となっており、これを受けて文部省が各学校に対していじめが登校拒否や自殺、殺人等の問題行動を招来するおそれがある深刻な問題であることなどを指摘する通知を出していじめ問題に関する指導の充実、強化を呼びかけ、中野富士見中学校においてもいじめの追放を昭和六〇年度の指導目標にかかげ、いじめに関する調査や会議、研修等を実施するなど、いじめの問題を単なる生徒間のいたずらやけんかと同質の問題として等閑視することは許されないことが明らかな状況だったのであるから、西川校長、藤崎担任その他の中野富士見中学校の教員等は、同校におけるいじめの発見に務め、適切に対処して、いじめを根絶すべき義務を負っていたというべきである。

しかるに、西川校長、藤崎担任その他の同校の教員等は、本件グループの構成員らの太郎に対するいじめが恒常化し公然化していたにもかかわらず、その本質及び深刻さを理解せずに、単にいじめの現場を目撃した場合にいじめられた太郎をなぐさめ、いじめた者に対してひととおりの注意を与えるにとどまって、いじめの根絶のための抜本的な対策をなんら講じることなく放置し、そのうえ、藤崎担任は、前記のとおり、自ら太郎の「葬式ごっこ」に用いられた色紙に寄せ書き及び署名をすることによって、その後のより激しいいじめを誘発することに加担するなどし、それによって太郎を自殺に至らせたものである。

したがって、西川校長、藤崎担任その他の同校の教員等は、被告中野区の履行補助者として太郎の教育活動中における生命及び身体の安全に配慮を尽くすべき債務の履行を怠ったものであって、被告中野区は、右債務不履行による損害を賠償すべき責任がある。

(2) (国家賠償法一条の規定による損害賠償責任)

西川校長、藤崎担任その他の同校の教員等は、被告中野区の地方公務員であって、同人らが生徒に対して行う教育活動は、国家賠償法一条にいう公権力の行使に該当するものというべきである。

そして、西川校長、藤崎担任その他の同校の教員等は、学校教育法等の教育関係法規の趣旨に基づき、教育活動の場における生徒らの安全を確保し、生徒らを保護監督すべき義務があるにもかかわらず、前記のとおりこれを怠ったことによって、太郎を自殺に至らせたものであるから、被告中野区は、国家賠償法一条の規定に基づき、右教員等の過失によって生じた損害を賠償すべき責任を負う。

(二) (被告東京都の責任)

被告東京都は、市町村立学校職員給与負担法一条の規定に基づいて、西川校長、藤崎担任ら中野富士見中学校の教員等の職員の給与その他の費用を負担している地方公共団体であるから、国家賠償法三条の規定に基づき、前記教員等の過失によって生じた損害を賠償する責任を負う。

(三) (被告甲野ら及び同乙川らの責任)

被告甲野らは、和雄の共同親権者として、被告乙川らは仁一の共同親権者として、それぞれ共同して和雄又は仁一の生活関係全般にわたって同人らを監護教育すべき義務があり、少なくとも自らの子が他人の生命又は身体に危害を加えるなどの社会生活を営むうえでの基本的規範に低触する行為を行わないように日頃から同人らに社会規範に対する理解と認識を身につけさせるべき義務を負うものであって、和雄又は仁一が他人の生命又は身体に危害を与えた場合には、親権者としての監護教育義務を怠ったものとして、それによって生じた損害を賠償すべき責任を負うというべきである。

しかるに、被告甲野及び同乙川らは、和雄及び仁一が本件グループのリーダーとして太郎に対し継続的に執拗ないじめを行っていることを藤崎担任又は原告三郎から告げられるなどして知っていながら、和雄又は仁一に社会規範の理解と認識を深めさせるための教育をすることなく、同人らの太郎に対するいじめを漫然と放置し、それによって太郎を自殺に至らせたものであるから、民法七〇九条、七一九条の各規定に基づき、それによって生じた損害を共同して賠償すべき責任を負う。

4  (太郎及び原告らの損害等)

(一) (太郎の損害賠償請求権とその相続)

太郎は、被告らの前記債務不履行又は不法行為により、次のとおり合計四五〇九万五六一五円の損害を被って、被告らに対して、同額の損害賠償請求権を取得し、原告らは、相続によって、各二二五四万七八〇七円あての損害賠償請求権を承継した。

(1) (太郎の逸失利益)

太郎は、死亡当時中学校二年生(満一三歳)であって、前記の経緯で自殺するに至らなければ、少なくとも満一八歳に達したときから満六七歳に達するときまでの四九年間は就労して収入を得ることができたはずであるのに、昭和六一年二月一日に死亡したことにより、三〇〇九万五六一五円(収入額を昭和六〇年度賃金構造基本調査に基づく男子労働者産業計・企業規模計・学歴計平均年収額により、その五分の一を生活費として控除して、ライブニッツ係数を用いて原価計算した額)の得べかりし利益を失った。

(2) (太郎の慰藉料)

太郎が被告らの前記債務不履行又は不法行為により自殺を余儀なくされたために被った精神的苦痛を慰藉するには、一五〇〇万円が相当である。

(二) (原告らの損害)

(1) 原告らが被告らの前記債務不履行又は不法行為により長男太郎に自殺されたことによって被った精神的苦痛を慰藉するには、各五〇〇万円が相当である。

(2) 原告らは、本件訴訟の提起及び追行を本訴原告ら代理人弁護士らに委任し、その報酬として各自二五〇万円を支払うことを約束して、同額の損害を被った。

5  (結論)

よって、原告らは、被告中野区に対しては在学契約の債務不履行又は国家賠償法一条の規定に基づき、被告東京都に対しては国家賠償法三条の規定に基づき、被告甲野ら及び同乙川らに対しては不法行為に基づく損害賠償請求として、各三〇〇四万七八〇七円及びこれに対する昭和六一年二月二日から支払済みに至るまで年五分の割合による遅延損害金の各自支払を求める。

二  請求原因事実に対する被告らの認否

1  請求原因1(当事者の関係等)の事実は、いずれも認める。

2  請求原因2(太郎に対するいじめとそれを原因とする自殺)冒頭の事実中、太郎、和雄及び仁一が中野富士見中学校二年A組の同級生であったことは認め、その余の事実は否認する。

同(一)の事実中、太郎、和雄及び仁一が昭和六〇年四月の進級に伴う学級編成替えにより二年A組の同級生となったこと、太郎が同年六月頃から和雄、仁一らと交遊するようになったこと及び太郎が和雄、仁一らが集まって買い食いをする際に買い出し役を務めたことがあることは各被告とも認め、太郎が同年七月頃から同人らとともに又は単独で授業抜け出し等の問題行動をとるようになったこと及び太郎が遊び仲間の鞄を持たされたことがあることは被告東京都及び同中野区においては認め、その余の被告らにおいては否認し、和雄及び仁一を中心として原告ら主張のようなグループが形成され、その統制下におかれた生徒らがグループ行動のような形で他の生徒に対する暴行、授業抜け出し等の問題行動をとったことは各被告とも否認し、その余の事実は被告東京都及び同中野区においては知らず、その余の被告らにおいては否認する。

同(二)の事実中、和雄及び仁一が太郎に対してまばたきを激しくする癖について注意を促したことがあることは被告甲野ら及び同乙川らにおいては認め、その余の被告らにおいては知らず、仁一が右の際太郎の頭を軽くたたいたこと及び仁一の飛び蹴りが太郎に当たってしまったことがあることは被告乙川らにおいては認め、その余の被告らにおいては知らず、太郎が同年一一月頃に顔面にフェルトペンで髭を描かれた姿で廊下において踊ったことは被告東京都及び同中野区においては認め、その余の被告らにおいては知らず、太郎が逃げたり抵抗したりすれば本件グループの構成員らから暴行を受けることになると恐れていたことは各被告とも否認し、その余の事実は被告東京都及び同中野区においては知らず、その余の被告らにおいては否認する。

同(三)の事実中、同年一一月一五日に原告ら主張のような生徒ら及び教諭らの寄せ書き等が記された色紙が太郎の机上に花、線香等を添えて置かれたことは各被告とも認め、和雄がその推進役の一人となったことは被告東京都、同中野区及び同甲野らにおいては認め、被告乙川らにおいては知らず、その余の事実は各被告とも知らない。

同(四)の事実中、和雄が太郎のつり銭着服を理由に太郎を一回殴打したことは被告甲野らにおいては認め(ただし、その時期は同年一〇月中旬頃である。)、その余の被告らにおいては知らず、本件グループによる太郎に対するいじめが「葬式ごっこ」を契機として校内で公然化し、一層執拗かつ陰湿なものとなっていったこと及び和雄が同年一一月二〇日頃中野富士見中学校の教諭の目前で太郎の上半身を裸にしたことは各被告とも否認し、その余の事実は被告東京都及び同中野区においては知らず、その余の被告らにおいては否認する。

同(五)の事実中、太郎が昭和六一年一月八日に原告主張の時刻及び場所において仁一から一回足で蹴られ、和雄から一回殴打されたことは各被告とも認め、太郎が右暴行を受けた際に耳からの出血を伴う傷害を負ったこと、被告が五日間の欠席の後に同月二二日に登校し、第二校時の授業時間中に数名の生徒らにそそのかされて校庭において歌を歌い、校庭のプラタナスの木に登ったこと及び同月三〇日に欠席を続けていた太郎が高橋に連れられるようにして登校したことは被告東京都及び同中野区においては認め、その余の被告らにおいては否認し、高橋及び仁一が同月三〇日に教室内に太郎と三人でいたことは被告東京都、同中野区及び同乙川らにおいては認め、被告甲野らにおいては否認し、右三名を見つけた手塚教諭が太郎を教育相談室に待機させたこと及び校舎内の下駄箱に収められていた太郎の靴が便所の便器の中に投棄されたことは被告東京都及び同中野区においては認め、その余の被告らにおいては否認し、その余の事実は被告東京都及び同中野区においては知らず、その余の被告らにおいては否認する。

同(六)の事実中、太郎が原告ら主張の日及び場所において原告ら主張の遺書を残して自殺したことは認め、その余の事実は知らない。

3  請求原因3(被告らの責任原因)の主張は、争う。

仮に和雄、仁一らのいじめが太郎の自殺の原因であるとしても、被告らにとって、同人らが認識し得た事情から太郎の自殺を事前に予見することは不可能であったから、被告らは太郎の自殺を回避できなかったことについて責任を負うものではない。

4  請求原因4(太郎及び原告らの損害等)の事実は、いずれも否認する。

三  被告らの抗弁(過失相殺)

太郎が原告らの主張するようないじめを受け、それを苦にして自殺するに至ったものであり、被告らが太郎の自殺を回避できなかったことについて損害賠償責任を負うとしても、太郎が自殺をするに至ったことについては太郎の家庭環境、原告らの監護のあり方等も相当の影響を与えているというべきであり、被告らの損害賠償の額を定めるに当たっては、原告ら及び太郎の過失を斟酌すべきである。

四  抗弁事実に対する原告らの認否

抗弁(過失相殺)の主張は、争う。

第三  証拠関係<省略>

理由

第一太郎が自殺に至るまでの事実経過について

請求原因事実1(当事者の関係等)の事実は、いずれも当事者間に争いがない。

そこで、先ず、太郎が自殺するに至るまでの事実経過についてみると、事実欄に摘示した当事者間に争いがない事実に、<証拠>を総合すると、次のような事実を認めることができる。

一  中野富士見中学校第一学年までの状況

1  太郎は、昭和四七年三月一〇日、会社員の原告三郎及び専業主婦の原告秋子間の長男として出生し、翌年に出生した三栄子との二人兄妹として原告らに育てられ、昭和五三年四月に自宅に程近い中野区立中野神明小学校に入学し、昭和五九年三月に同校を卒業して、同年四月、和雄(昭和四六年九月一三日生れ)及び仁一(昭和四六年八月二二日生れ)を含めた同窓生のほとんどとともに、中野富士見中学校に入学した。

2  中野富士見中学校は、当時約五〇〇名の生徒が在籍し、そのほとんどが前記中野神明小学校又は中野区立向台小学校の卒業生で、西川校長ほか約二〇名の教員らが右生徒らの指導に当たっていたが、太郎は、第一学年中は、幼い頃からに引き続いて鉄道関係に旺盛な興味を示していたほか、特別活動の理科クラブに熱心に参加するなどし、この間、格別の問題行動は観察されていない。もっとも、太郎は、第一学年を通じて一三日欠席し、学級担任教諭は、太郎について、授業態度、学習意欲及び基本的な生活習慣に問題があるとの評価をしている。

そして、太郎の当時の行動や作文等からは、豊かな情感や想像力、繊細さ、頭のよさが窺われるとともに、寂しがりやで社会的なもろさを持っていたことが看取され、また、普段は明るく冗談を言い、ひょうきん者あるいはアイドル的又はピエロ的存在であったとする人物評価もあって、このような性格特性が恰好のよさや主観的な自己完結性のある行動をとらせることになっていったことが窺われる。

3  また、交友関係においては、太郎は、小学校時代からの友人であり、当時は同級生でもあった高橋とは親しかったが、和雄及び仁一とは、小学校在学当時からの顔見知り程度にとどまり、同級に属していなかったこともあって、深い交遊関係にはなかった。

そして、和雄、仁一及び高橋は、第一学年中においては、学校生活の中で際立った問題行動を起こすことはなく、警察の補導を受けたようなこともなく、成績も決して下位のグループに属していたというものではなかった。

4  原告らは、昭和五九年一〇月九日に協議離婚して、原告秋子は、太郎の親権者となったものの、原告三郎方を出奔して太郎とは同居せず、その実際上の監護は原告三郎に委ねていた。

しかし、原告三郎は、一本気でやや短気な性格の持主であり、太郎に対しても、一方的に男らしさを求めて叱責し、特に折檻することがあるなど厳格な対応に終始して、太郎の前記のような性格特性についての理解が必ずしも十分ではなかった。

二第二学年第一学期における状況

1  太郎は、昭和六〇年四月、第二学年に進級し、これに伴う学級編成替えによって、和雄及び仁一とともに、藤崎担任が学級担任の二年A組に所属することとなり、また、中島は二年B組に、一木正(以下「一木」という。)は二年C組に、高橋、塚本、加藤及び丸山利一(以下「丸山」という。)は二年D組にそれぞれ所属した。

2  第二学年に進級した生徒らは、中学校生徒の一般的傾向と同様、第一学年時に比較して全体的に遅刻、授業の抜け出し、授業中の私語等の就学態度の乱れ等の規律違反が目につくようになったが、なかでも、小学生又は幼稚園児の時代からの友人で気心も知れ、また、生活態度も似通っていた和雄、仁一、中島、加藤、高橋、塚本、丸山、一木らには、喫煙、授業の抜け出し、教師に対する反抗的態度等の問題行動が多くみられるようになり、また、同人らの全部又は一部は、自然と学校内外における行動をともにすることが多く、放課後を高橋、仁一等の自宅に集まって過ごすこともあった。また、和雄は、この頃、深夜徘徊等の非行について二、三回にわたり警察による補導を受けている。

3  太郎は、同年二月頃、原告三郎らとともに高橋やその家族が住居していた中野区内のマンションに転居し、高橋と隣同志となったが、和雄、仁一、中島、加藤、塚本らが高橋方で放課後を過ごすことがあったことがきっかけとなって、同年六月頃以降、右生徒らと交遊するようになり、特に同級生の和雄及び仁一と行動をともにする場面が増え、同人らとともに授業の抜け出し、授業妨害等を行い、あるいは、教師に対する反抗的態度を示すようになった。

また、太郎は、右生徒らの全部又は一部とともにいる場面においては、仲間が買い食いをするときなどに使い走りをするようになって、次第にそのような役割が定着し、登校・下校時の鞄持ち、学校の授業のノートの録取、レンタルレコードの返却その他の場合にも同様の役割を演じることが多くなった(太郎を含めた右生徒らの仲間を以下「本件グループ」という。)。

4  藤崎担任は、学校内外における右のような太郎の動向を概ね察知し、また、太郎の授業抜け出し等の行動や勤怠状況(欠席六月中四日、遅刻五月中三回、六月中五回、七月中五回)に照らして、同年七月頃、原告三郎に対して電話で家庭における監督、指導を促したが、原告三郎が感情的な対応に終始し、意のあるところを伝えることができなかったため、同月七日頃、原告三郎に対して、家庭環境を案じるとともに太郎の遅刻の多いことや交遊関係上の問題点を書き記した手紙を送った。

原告秋子は、同月頃、再び原告三郎方に戻り、太郎とも同居するようになったものの、原告らは、一度も保護者会へ出席しないなど、学校との連絡体制は十分でなかった。また、太郎は、原告らに対し、本件グループに属する生徒らとの交遊関係について、使い走りをやらされる程度で、たいしたことはないと応答していたため、原告らも、特にこれを問題視することはなかった。

三第二学年第二学期における状況

1  中野富士見中学校においては、昭和六〇年九月頃以降、二年生の生徒らによる授業の抜け出し、授業妨害、壁、扉等の学校施設の損壊、教師に対する反抗等の問題行動が一層多発するようになって、教師らが休憩時間に交替で廊下等の見回りをするほか、二年生の保護者らの有志が交替で授業時間中の廊下の巡回するなどの対策がとられ、被告甲野春子及び同乙川夏子も、これに参加した。

和雄及び仁一は、これらの問題行動の場面では主導的立場にあることが多かったため、藤崎担任は、同人らに口頭により注意を促したが、聞き入れられず、再三にわたって、被告甲野ら及び同乙川らにこれらの問題行動について連絡し、家庭における指導を促すなどした。

そして、太郎も、和雄、仁一らとの交遊が深まるにつれて、同人らに追随又は同調して授業妨害等や教師に対する反抗的な態度に出ることが多くなった。もっとも、太郎は、この時期においても、単独では、遅刻、欠課、授業の抜け出し等の行動をとるにとどまって、教師に対しても素直な対応を示し、藤崎担任との間においても一定の信頼関係を維持していて、先に指摘したような性格特性を示している。

2  太郎は、第二学期においては、和雄や仁一から菓子、飲物等の買い出しを頼まれるようなことが多くなって、授業を抜け出してこれを応えるなどすることもあった。

中野富士見中学校教諭比良田健一は、同年九月頃、和雄及び仁一のために買い物に行って帰って来た太郎をみとがめて事情を聞き出し、太郎、和雄及び仁一を校長室に呼び出し、和雄及び仁一から同人らが太郎に使い走りをさせた事実を確認して、太郎に謝罪させるとともに、同様のことを繰り返さないように厳重に注意し、また、太郎に対しても、今後和雄又は仁一から同様の依頼を受けたり文句を言われたような場合には直ちに連絡するように諭した。

ところが、和雄及び仁一は、その直後に、男子便所内において、太郎が使い走りの事実を右比良田教諭に告げたことを理由として、太郎に対して、殴打し又は蹴るなどの暴行を加えた。

3  原告秋子は、前記のとおり、同年七月頃に再び原告三郎方において同居するようになったが、病気の叔父の看病のためという理由で、同年九月頃から一一月頃まで長期間にわたって不在にし、必ずしも安定した家庭環境とはいえなかった。

太郎は、同年一〇月一五日の下校時、仁一に対して、家に帰りたくない、父の顔を見たくないなどと言い出して、仁一に連れられて一木の自宅に赴き、同日及び翌一六日の二日間、原告らに無断で仁一とともに一木宅に外泊した。

藤崎担任は、同月一七日に登校した太郎に家出の理由を聞き出したところ、家庭の事情であると答え、原告三郎に叱られるのが怖いと告げたので、放課後、太郎とともに原告三郎の勤務先に赴き、太郎を厳しく叱責しないように依頼するなどした。

4  和雄、仁一、高橋、加藤らは、同年一〇月頃から、中野富士見中学校の近くの中野区立南部青年館の音楽室を利用して、バンドを結成して放課後等にヘビーメタル音楽の演奏をするようになったが、これを契機として、既に同種のバンドを結成していた同校三年生の伊藤雅也(以下「伊藤」という。)、古田高貴(以下「古田」という。)、立川貴文(以下「立川」という。)らとも交遊関係が生じ、放課後や休日の行動をともにすることが多くなった。

太郎は、自ら楽器を演奏することはなかったが、右生徒らと行動をともにして、ここでも使い走りのような役割を演じていた。もっとも、和雄、仁一らのメンバーは、右バンドの名前を太郎の苗字をとって「ザ・丙沢」と命名するなどしている。

5  和雄を含む中野富士見中学校二年A組の生徒数名は、同年一一月中旬頃、太郎の不在の席で雑談していた際、欠席、遅刻の多い太郎が死亡したことにし同人の追悼のまねごと(葬式ごっこ)をして、同人を驚かせようと言い出した者がいて、これに賛同し、実行に移すこととした。

そこで、右の生徒らは、同月一四日から同月一五日にかけて手分けしてその準備をすることとして、中央に「丙沢君へ さようなら 2Aとその他一同より 昭和60年11月14日」と書いた色紙に二年A組の生徒らのほぼ全員、第二学年の他の学級の生徒らの一部、藤崎担任、英語科担当教諭上嶋聰雄、音楽科担当教諭小林新及び理科担当教諭斎藤学の四名の教諭らに対して、右色紙への寄せ書きを求めた。

寄せ書きを求められた右教諭四名及び生徒四二名はいずれも右色紙が太郎の追悼という悪ふざけに使われることを認識したうえでこれに応じ、藤崎担任においては「かなしいよ」、右上嶋教諭においては「さようなら」、右小林教諭においては「やすらかに」右斎藤教諭においては「エーッ」、和雄においては「今までつかってゴメンネ これは愛のムチだったんだよ」、仁一においては「LONELY EVERYBODY O.K.」などとの寄せ書きをした。また、その他の生徒からの寄せ書きは、「さようなら」、「君はいいやつだったね」、「いい思い出ありがとう」といったものから、「つかわれるやつがいなくなってさびしーよ」、「ざまあみろ」、「いなくなってよかった」などといったものまで様々であった。

そして、右の色紙は、同月一五日の朝、生徒らが持ち寄った太郎の旅行時の写真、牛乳びんに生けた花、みかん、線香等とともに、太郎の机の上に置かれた。遅刻して登校した太郎は、これを見た時、「なんだこれ」と言って周りの生徒らの顔を見たが、生徒らは答えず、そのうちの一名が弔辞を読み上げ出したところ、いつものように笑いを浮かべただけで、特に抗議もせずに、右色紙を鞄の中にしまった。太郎は、同日帰宅後、原告秋子に対し、「こんなのもらっちゃった」と言って右色紙を見せた。右色紙は、太郎の自殺後、自宅の勉強机と家具の間のすきまから発見された。

6  その後の出来事としては、塚本は、同年一一月頃の休憩時間中の校内で、太郎の顔にフェルトペンで口髭のような模様を描き込み、仁一も、途中でこれに加わって太郎の顔にあご髭のような模様を描き込み、太郎は、そのままの格好で別段嫌がる様子もなく、教室前の廊下等を踊るようにして歩いたようなことがあった。

また、和雄及び仁一は、その頃、授業時間中の教室内で、太郎に対して、激しくまばたきするななどと言って、平手で頬を打ったことがあった。

さらに、太郎は、同年一一月頃、校外で仁一、高橋、古田らと遊んでいた際、通りかかった中野富士見中学校一年生から侮辱的な言葉を投げかけられ、仁一及び高橋から「悔しくないのか。やっつけちまえよ。」などとけしかけられて、右一年生と殴りあうなどのけんかをした。

そのほか、仁一は、同年一二月頃、太郎とともに校庭にいた際、校舎二階の窓から三年生数名に声をかけられ、校舎壁面の鉄パイプをよじ登って右二階まで登ることを試みようとし、先ず太郎に先に登るように告げたところ、太郎は、これに応じて右鉄パイプを登り始めたが、途中で断念して二階までたどり着けず、仁一も、これに続いて右鉄パイプをよじ登ろうとしたが、同様に途中で落下してしまったようなことがある。

7  ところで、太郎は、同年一二月頃以降、次第に本件グループの生徒らから離反感を抱くようになって、和雄、仁一、高橋等から使い走りを依頼されても快くこれに応じなかったり、同人らからの呼び出しにも応じないことが多くなった。

他方、本件グループの生徒らも、従前のようには太郎が意にそわないことに不満を持ち、使い走りを拒んだときに太郎に平手打ちを加えるなどした。太郎は、原告らに対して、和雄らから暴行を受けたことを告げたが、原告三郎は、被告甲野ら方に電話をしたり出向くなどして激しく抗議し、これを受けた被告甲野春子も、感情的な対応をするにとどまるなどして、結局、お互いに実のある話し合いをしないままとなった。そして、和雄らは、太郎が親に告げ口をしたとして、それを理由に太郎に暴行を加えるようにもなった。

このほか、和雄は、この間の同年一二月中旬頃、前記南部青年館の地下において、つり銭六五〇円を返さずに使ってしまったとして、太郎の頬を殴打するなどし、また、仁一及び塚本は、その頃、原告らの自宅近くの公園において、買ってきた飲物が気に入らないなどと因縁をつけて、居合せた女子同級生の前で、野球拳遊びをまねて太郎の上半身を裸にし、石製の滑り台に寝そべらせたり、これを滑り降りることを強いるなどした。

そして、その頃以降、本件グループの生徒らの中では、太郎が本件グループから離脱しようとしていることに対応し、太郎を無視し仲間外れにしようとする気運が生じ、次第に本件グループ内外においてその動きが強まっていった。

8  太郎は、右のような状況を反映して、学校も欠席することが多くなり、一二月中には八日欠席し、特に同月一八日から同月二四日まで連続して六日欠席するなどした。

しかし、藤崎担任は、原告らが保護者会や保護者面談等に一切出席しなかったので、太郎の欠席状況や問題行動等について原告らと話し合う機会が持てず、同月下旬頃、出勤途中に原告ら方を訪れたが、実情を告げられることを恐れる風の太郎が一緒に応対していたところから、十分な懇談をしないままとなった。

被告甲野らは、原告三郎から前記のような抗議を受け、和雄に対して暴行の事実を問い質すなどしたが、同人がこれを否定すると、それ以上深く事情を聞くことはなかった。

また、被告乙川らは、藤崎担任から仁一の問題行動等について連絡を受けるなどしたときは、同人を叱責するなどしたが、同人の具体的な動静を十分把握しないままとなっていた。

四冬期休暇及び第二学年第三学期の状況

1  太郎は、昭和六〇年一二月頃以降、前記のとおり、本件グループに属する生徒らとは離反する傾向を示すとともに、同級生の斎藤四郎(以下「斎藤」という。)らの新しい友人との交遊を持つようになって、同月三一日から昭和六一年元旦にかけては、右の新しい友人らとともに、初日の出を拝むための東京都下の高尾山への自転車旅行を計画してこれに参加した。

ところが、本件グループの生徒らは、太郎が右のとおり斎藤らと旅行したり、和雄や仁一が暴行を加えたことを親に告げたことに憤慨するとともに、斎藤が右生徒らの意向に反して太郎とともに右の旅行をしたことにも立腹するに至った。

2  仁一、和雄、加藤及び伊藤は、第三学期の始業式当日の同年一月八日午前一一時頃、太郎と一緒に前記旅行に参加した斎藤を音楽室前廊下に呼び出して、伊藤及び仁一において殴打、足蹴り等の暴行を加え、さらに、校内を清掃中の太郎を呼び出し、この段階で参加した、高橋、塚本、古田らとともに、太郎を人目につきにくい校舎屋上階段付近に連行したうえ、その一部の者において見張りをし、和雄、仁一、その他の生徒らにおいて太郎の腹部を足蹴りにし顔面を殴打するなどの暴行を加え、左耳後部に出血をみる傷害を与えた。

芦澤教頭は、同日午前一二時頃、太郎とともに下校するべく校庭を歩行していた伊藤がさらに太郎の顔面を一回殴打するのを目撃して、現場に急行し事情を聞こうとしたが、退散してしまった。そこで、芦澤教頭は、藤崎担任とともに、太郎及び伊藤の自宅に電話するなどして、事実を質したが、いずれも加害、被害の事実を頑強に否認したので、それ以上の追及はしなかった。

他方、原告秋子は、同日午後、帰宅の遅い太郎を案じて、斎藤の自宅に電話をして、太郎が斎藤ともども暴行を受けた事実を知り、夕刻帰宅した太郎に事情を質したところ、太郎が、予め高橋らから指示されたとおり、校外で恐喝に遭って所持金がなかったために殴られたとの趣旨の説明をしたので、そのままとした。

3  その後、太郎は、同年一月一四日までは登校したものの、その頃以降、本件グループの生徒らとの関係に一層深刻に悩むようになって、同月二一日まで、原告らには登校する振りを装って家を出つつ、芦澤教頭や藤崎担任らには病院へ行く旨の電話をするなどして、連日にわたって欠席した。

この間、太郎は、同日一六日頃、和雄や仁一に使い走りをさせられることなどの苦悩やそれを親に相談したことが同人らに知られると自分が一層窮地に陥ることなど、逃げ場のない気持ちに追い込まれていることを窺わせる原告秋子あてのメモを残すなどしたが、原告らは、太郎に対して、その翌日一日欠席を許しただけで、深く事情を聞いたり、藤崎担任その他の教師に連絡したり相談することもなかった。

そして、太郎は、同月二二日、八日振りに登校し、第二校時の体育の授業を見学していた際、授業を抜け出してきた中島、加藤、塚本、伊藤、立川らから、同人らの前で歌を歌わされたり、肩車をして校庭のプラタナスの木に登らされ、その木を揺さぶられるなどした。芦澤教頭又は藤崎担任は、これを現認して、右生徒らに対して口頭で制止するなどはしたものの、それ以上に太郎等から立ち入って事情を聞くなどのことはしなかった。

このようなことがあって、太郎は、同月二三日以降、再び登校する振りを装って家を出、芦澤教頭や藤崎担任らには病院へ行く旨の電話をするなどして、同月二九日まで連続して欠席した。

4  太郎は、同年一月三〇日朝、前日までと同様に、原告らには登校する振りを装って家を出て時間をつぶし、午後二時頃自宅付近まで帰ったところ、遅刻して登校しようとしていた高橋に出会い、同人に連れられて登校したが、その途上での高橋の言動から再び本件グループの生徒らから暴行を受ける気配を感じてこれを恐れ、連れていかれた空教室に高橋及び仁一とともにいるところを発見した手塚教諭に対して、逃がしてほしい旨告げて助けを求めた。異様に感じた手塚教諭は、太郎を教育相談室に入らせて保護し、藤崎担任に連絡した。

藤崎担任は、手塚教諭から右の経緯の報告を受け、教育相談室に赴いて太郎から事情を聞いたところ、太郎は、おびえた様子で、和雄、仁一、高橋らに捕まって暴行を受ける恐れがあり、一人では帰宅できないことなどを藤崎担任に告げた。

藤崎担任は、原告秋子に太郎を迎えに来るように連絡し、駆け付けた原告秋子との間で、本件グループからの離脱が容易ではないことや、事態が改善しない場合には太郎が転校したり警察の助力を求めるなどの方策をとることができることを話し合い、同年二月一日の土曜日に原告らの自宅を訪れて、原告らと更に相談することを約して、太郎を原告秋子と一緒に帰宅させた。

原告らは、同日夜、今後の打開策を太郎と協議したが、太郎は、転校はしたくない意向を示し、こうなったら何も怖いものはないなど言い、それ以上に特に思い詰めたような様子は看取されなかった。

5  ところが、太郎は、翌日の同年一月三一日朝八時三〇分頃、制服を着用して登校するかのように家を出たが、通学鞄には普段着、下着、友人からの年賀状等と原告らに無断で持ち出した現金四万円携行していて、同日は登校せず、同日夜になっても帰宅しなかった。

そして、太郎は、同年二月一日午後一〇時一〇分頃、かねてから原告らとしばしば訪れたことのあった原告三郎の実家のある岩手県の国鉄盛岡駅ビル地下一階の男子便所内において、買い物袋の裏に書いた前記摘示のような遺書を遺し、縊死しているのが発見された。死亡推定時刻は、同日午後九時四〇分頃である。遺品の中には、新たに買い求めたミュージックテープ、現金三三一円などとともに、保坂展人著「やったね元気君―体罰いじめに負けなかったぜ」とビートたけし著「幸か不幸か」の二冊の書籍が含まれていた。

第二被告中野区及び同東京都に対する請求について

一原告らは、本訴において、公立中学校である中野富士見中学校における生徒間でのいわゆるいじめによる太郎の自殺につき、当該中学校設置者である被告中野区に対しては債務不履行又は国家賠償法一条一項の規定による損害賠償を、被告東京都に対しては同法一条一項、三条一項の各規定に基づいて損害賠償を求めるものであるので、先ず、この場合における法律関係の性質とそこで適用されるべき法理について検討する。

1 先ず、原告らは、太郎と被告中野区との間には私法関係たる在学契約関係が成立していたものであるとし、被告中野区又はその履行補助者らがいわゆる安全配慮義務を怠ったとして、同被告に対し債務不履行を追求する。

しかしながら、公立中学校における生徒の就学ないし在学関係は、保護者は子女(所定の程度の心身の故障のある盲者等を除く。)が小学校の課程を終了した日の翌日以後における最初の学年の初めから満一五歳に達した日の属する学年の終わりまでこれを中学校に就学させる義務を負い(学校教育法三九条一項)、これに対応して、市町村(特別区を含む。)の教育委員会は当該生徒に対して就学校及び入学期日を指定すべきものとされている(同法施行令五条一項、二項)ところから、教育委員会のする右就学校及び入学期日の指定によって当然に発生するものであって、これによって、保護者は、当該子女を指定された入学期日以降指定された中学校に就学させるべき義務を負うに至る一方、当該市町村は、教育関係法規に従って当該生徒に対し施設や設備を供して所定の課程の教育を施すべき義務を負うのであって、そこには契約の観念を容れる余地はなく、また、このようにして成立した当該中学校設置者と生徒との間の就学ないし在学関係は、その強い公益的性質や当事者の意思にかかわらない画一的性格に照らして、公法上の法律関係であるものと解するのが相当であって、損害賠償請求権の消滅時効その他一定の個別的な法律関係について民法その他の私法法規を類推適用すべき余地があるかどうかはともかく、原則として私法法規が適用される余地はないものというべきである。

したがって、太郎と被告中野区との間には私法関係たる在学契約関係が成立していたことを前提として被告中野区に対して債務不履行による損害賠償を求める原告らの請求は、排斥を免れない(ある法律関係が公法関係であるか私法関係であるかは、必ずしもそれが契約によって成立するものであるか行政処分その他によって形成されるものであるかによって決せられるものではなく、また、原告らの主張するいわゆる安全配慮義務ないし安全保持義務は、後に説示するとおり、契約関係又は私法関係に固有のものではないのであるから、公立中学校設置者と生徒との間の法律関係を敢えて契約関係又は私法関係として擬律しなければならない実際上の意義や必要性は乏しい。)。

2 ところで、このようにして成立した公立学校における学校教育関係においては、当該学校設置者は、心身の発達過程にある多数の生徒を集団的にその包括的かつ継続的な支配監督下に置き、その支配し管理する学校の施設や設備において所定の教育計画に従って教育を施すのであるから、このような特別の法律関係に入った者に対する支配管理者的立場にある者の義務として、当然にそれより生じる一切の危険から生徒を保護すべき債務を負うものというべきである。

公立学校設置者が負うこのような安全保持義務は、単に学校教育の場自体においてのみならず、これと密接に関連する生活場面において他の生徒からもたらされる生命、身体等への危険にも及ぶものであって、このような場合、教諭その他の学校教育の任に当たる者としては、その職務として、生徒の心身の発達状態に応じ、具体的な状況下で、生徒の行為として通常予想される範囲内において、加害生徒に対する指導、監督義務を尽くして加害行為を防止するとともに、生命、身体等への危険から被害生徒の安全を確保して被害発生を防止し、いわゆる学校事故の発生を防止すべき注意義務がある。

3 そして、国家賠償法一条一項にいわゆる「公権力の行使」とは、国又は公共団体の行う権力作用に限らず、純然たる私経済作用及び公の営造物の設置、管理作用を除いた非権力作用をも含むものと解するのが相当であるから、公立学校設置者が故意又は過失によって生徒に対する右安全保持義務に違背し、その結果、生徒に損害を加えたときは、当該学校設置者及びその費用負担者は、同法一条一項又は同条同項及び同法三条一項の各規定に基づき、その損害を賠償すべき責任がある。

したがって、中野富士見中学校の設置者である被告中野区及びその費用負担者である被告東京都の責任の存否は、結局、本件において被告中野区に右にみたような意味での安全保持義務違背があったかどうかにかかることになる。

二ところで、以上にみたような公立学校設置者の負う安全保持義務は、学校教育のあり方そのものとも密接な関連を有し、とりわけ本件において問題となる生徒間のいじめの問題は、学校、家庭、社会それぞれの要因が複雑に絡み合った根深い原因を持つものであって、必ずしも学校生活だけに原因があるものではなく、また、ひとり学校当局者のみによってよく対処することができる問題ではないことなどに照らし、そこでの学校設置者の負う具体的安全保持義務の内容を策定するに当たっては、いわゆるいじめの問題に対する洞察と学校教育の特質ないし限界についての深甚な考慮とを必要とするところである。

そこで、先ず、これについて検討する(以下の説示中事実にわたる部分は、<証拠>による認定にかかるものである。)。

1  およそ強者が弱者に対して精神的、肉体的な苦痛を与えるという通常の意味におけるいじめは、人の集団にひそむいわば病理として、必ずしも子供の世界に固有のものではない。

ところが、昭和五〇年代後半頃以降、中学生による殺傷事件、自殺事件、生徒間のいじめに伴う事件等が相次いで発生して、社会に大きな衝撃を与え、これを契機として、各種の報道、調査結果、事例研究等によって、生徒間のいじめが右のような通常の意味のいじめの域を超え、それまでにない特異性を持つものであることなどが指摘されるに及んで、小、中学校の生徒間のいじめが深刻な社会問題としてとらえられるようになった。

2  これに対して、文部省、法務省、警察庁、地方公共団体、大学等研究機関等は、昭和六〇年前後において生徒間のいじめの実態調査を行うなどし、また、文部省は、この種の問題に対処する方策の在り方等について検討するため、昭和五八年二月一七日に「最近の学校における問題行動に関する懇談会」を開催して、同年三月にその提言を得、また、昭和六〇年四月に「児童生徒の問題行動に関する検討会議」を発足させて、同年六月にその緊急提言を得、これらの提言をその都度所轄教育委員会を通じて小、中学校当局等に通知するとともに、生徒のいじめ問題に関する指導の充実、強化方を示達し、昭和五九年三月には生徒指導資料「児童の友人関係をめぐる指導上の諸問題」を刊行するなどしてきた。

3  そして、これらの調査等によって、現下のいじめの問題は、学校における指導力やその協力体制の在り方、家庭におけるしつけの問題、過度の受験競争・急激な社会環境の変化・地域社会における連帯感の欠如などの社会的風潮等を背景として、学校、家庭、社会それぞれの要因が複雑に絡み合った根深い原因を持つものであること、その態様も、単に暴力その他有形力の行使を伴う外形的に明確なものばかりでなく、外部からは明確にとらえ難い陰湿かつ残忍な方法によるものであったり、集団の力を借りて集合的に特定の児童に対していじめが行われるなど、新しく異質のものが多くなっていること、その結果として登校拒否や自殺、殺人等の問題を招来する恐れがある場合もあることなどが明らかにされ、前記の提言等は、いじめの問題を単なるいたずらやけんかと同一視したり、生徒間の問題として等閑視することは許されない状況にあるとの基本的認識に立って、その解決のためには、いじめへの予防及び対応等の緊急の措置とともに、生徒の生活体験や人間関係を豊かなものにしていく長期的な観点に立った施策が必要であるとし、このうち、学校当局等として緊急に取り組むべき課題として、校内の指導体制を確立し、学校全体として一致協力して取り組むこと、学校内に深刻ないじめにより被害を受けた生徒が率直に悩みを打ち明けることができる場を用意すること、父母との間の懇談会の開催、家庭訪問の実施等により、保護者や地域社会との連携を深めること、いじめが人間として許されるべきでないことを徹底させ、思いやりや助け合いの精神等を学校全体にいきわたらせること、法令に定める出席停止の措置、学校内謹慎による特別の措置、学校教育法施行令八条の定める学校指定の変更、同令九条の定める区域外就学の制度等の適切な運用によって対処することなどを掲げている。

そして、東京都教育委員会においても、このような動きを受けて、昭和六〇年五月、東京都内の所管学校等におけるいじめの問題の実態調査を行って、その結果に基づいた指導資料を関係機関等に配布するなどし、また、中野富士見中学校においても、学年会、生活指導部会、拡大学年会、生活指導のための協議会・研究会等、校内巡視の徹底、家庭訪問、保護者との父母懇談会などの体制のなかで、いじめの追求を当面の指導目標にするなどして、この問題に組織的に取り組むものとされていたが、本件訴訟にかかる事件は、そのような最中において発生したものである。

4  これらの提言等においていじめの問題への予防ないし対応のための緊急の措置として掲げられた諸施策は、もとより学校教育の実践としての課題であって、それが直ちにそのまま公立学校設置者の負うべき安全保持義務の内容となるものではないけれども、右のような当時における経過や状況に鑑みると、公立学校設置者等は、前記の調査又は提言等に示されたようないじめの問題に対する基本的認識に立って、学校教育の場及びこれと密接に関連する生活場面における生徒の生活実態をきめ細かく観察して常にその動向を把握することに努め、当該具体的な状況下においていじめによる生徒の生命若しくは身体等への危険が顕在化し又はそれが現実に予想される場合においては、当該危険の重大性と切迫性の度合に応じて、生徒全体に対する一般的な指導、関係生徒等に対する個別的な指導・説諭による介入・調整、保護者との連携による対応、出席停止又は学校内謹慎等の措置、学校指定の変更又は区域外就学についての具申、警察への援助要請、児童相談所又は家庭裁判所への通知等の方策のいずれかの然るべき措置又は二以上のそれを同時に若しくは段階的に講ずることによって、生命、身体等に対する被害の発生を阻止して生徒の安全を確保すべき義務があるものというべきである。

5  他方、ある具体的な状況下において教諭その他学校関係者に具体的安全保持義務違背があったかどうかを判断するについては、いじめの性質や教育の本質に由来する次のような限界を指摘しないわけにはいかない。

(一) 現下の生徒間のいじめの問題の構造は、主として、学級を中心とした生徒集団内において、弱いものがより弱いものを標的として攻撃し、自分の存在の安定を求め、地位の安定を図ろうとしてする集団的な状況における人間関係の衝突の場で生じる逸脱行動のひとつであって、現代社会の歪みを色濃く反映しているものとされている。また、生徒間のいじめは、その手段又は方法において、冷かし・からかい、言葉でのおどし、嘲笑・悪口、仲間外れ、集団による無視、物品又は金銭のたかり、持物を隠す、他人の前で羞恥・屈辱を与える、たたく・殴る・蹴るなどの暴力等、いじわるの域を出ないようなものから、道徳・倫理規範上の非違行為、更には、それ自体が犯罪行為を構成するようなものまで、多種多様にわたるものであることが明らかにされている。

そして、これらのいじめをなくすことが学校教育の実現すべきひとつの理想であることはいうまでもないけれども、あたかも犯罪のない社会がないのと同様に、その根絶自体は不可能であって、むしろ、子供は、家庭に次ぐ仲間集団である学校という世の中のありようを投影した小社会において、異なった存在や主張を持つ他者とのめぐりあい、正邪、強弱、その他もろもろの体験をし自我を確立していく中で、社会の価値や規範を体得し、社会化を遂げていくものである。したがって、そこでの学校教育の課題や学校当局者の責務は、およそいじめのない学校社会を実現することは不可能であることを前提として、生徒らがいじめの克服を通して主体的に自我を確立し、他者に対する思いやりの精神を身につけていくことに向けられるべきものである。また、いじめの行為といっても、右にみたとおり、必ずしもそれ自体が法律上違法なものであるとは限らないのであるから、子供の人権上又は教育上の配慮から、それを規制するためにとり得る方策にもおのずから限界があって、多くの場合においては、教育指導上の措置に限定されざるを得ないことも明らかである。そして、これらのことは、現下の生徒間のいじめの問題が旧来のそれといかに異質のものであるとしても、基本的には変わるところはない。

これに対して、学校設置者の負う安全保持義務は、右のような学校教育の課題とは一応別個の観点に立ち、むしろいじめの根絶という学校教育のひとつの理想の達成が現実的には不可能であるという前提に立ったうえで、個々的な学校教育の場又はこれと密接に関連する生活場面において、生徒の生命、身体等に対する被害の発生を防止し生徒の安全を確保すべき義務にほかならないのであって、そこからは必ずしも生徒間のいかなる態様によるいじめをも阻止し禁圧すべき義務が導かれるというものではない。言い換えれば、学校設置者は、いじめの具体的態様又は程度、被害生徒と加害生徒の年齢、性別、性格、家庭環境等の諸般の具体的状況に照らし、そのまま放置したのでは生命若しくは身体への重要な危険又は社会通念上許容できないような深刻な精神的・肉体的苦痛を招来することが具体的に予見されるにもかかわらず、故意又は過失によって、これを阻止するためにとることのできた実効的な方策をとらなかったとき、初めて安全保持義務違背の責めを負うに至るものである。

したがって、ここで学校教育の課題ないしその成果の有無と安全保持義務違背の有無とを混同し、いじめへの行動傾向を示す生徒の教育指導や矯正が効を奏さず、およそいじめが防止できなかったからといって、その一事をもって直ちに学校当局者に安全保持義務への違背があるものと即断するようなことがあってはならないし、さらに、安全保持のための方策としても、生徒の教育指導の原則に適合するようなものであることが要請されるから、そこにもひとつの限界がある。

(二) 次に、最近の生徒間のいじめは、しばしば偽装された手口で行われたり、いじめを正当化し又はその動機を隠して行われ、また、被害生徒自身も、報復を恐れ、あるいは、教師や保護者に話しても問題の解決にはならないとの考えから、自分がいじめられていることを教師や保護者に話さないことが多いうえ、いじめの深刻さは、いじめる側の動機や行動以上に、いじめられる側の被害感情に依存するところが大きい。

そうすると、いじめの行為それ自体としては加害的要素の少ないものであっても、被害生徒には計り知れない心の傷を負わせるといったこともあり得、生徒集団の外にある教師や保護者にとっては、生徒間のいじめの事実は著しく認知し難いものとなることを免れない。

したがって、教師その他生徒の安全保持の任に当たる者は、時には外部的な徴表から生徒の心象を把握するという至難の技を強いられ、そこでは専門的・技術的な知識や経験の上にたっての微妙な判断とならざるを得ない。

それ故、安全保持義務違背の有無の判断は、教育専門職としての教師等の専門的・技術的な判断として合理的な基礎を持つものであったかどうかを基準としてなされるべきであって、いたずらに回顧的な観点から思い当たる事実を集積して、結果責任を問うに等しいことになってはならない。

三以上のような観点にたって、本件につき、被告中野区に右にみたような意味での安全保持義務違背があったかどうかを具体的に検討する。

1  人が敢えて死の途を選ぶという主観的な世界や心理の深層部にかかわる事柄について、軽々に推測することはできないけれども、先に認定した事実関係によれば、他に特段の事情の認められない本件にあっては、太郎は、昭和六〇年一二月頃までは、本件グループに対して一定の帰属意識を持ち、そこで果たす一定の役割等を通して自らを位置付けてきたのであったが、次第にこれを重圧と感じるようになって、そこから離脱したい気持ちを抱くようになり、教師や両親に助けを求めてもなんら有効な手だてにはならないとの認識を持つ一方で、右生徒らからは太郎が離脱しようとしていること自体又はそれを両親に告げたことなどを理由として暴行を受けるなどし、それが一層太郎に本件グループに対する離反感を募らせるという悪循環の中で次第に孤立無援の感を深めていたところ、昭和六〇年一二月頃から前記のとおり本件グループの生徒らによる太郎を仲間外れにしようとする動きが強まり、昭和六一年一月八日から同月三〇日にかけて生じた前記の一連の出来事を契機として一層深刻な苦悩状態に陥り、転校問題等が具体的な話題となるなどして、両親及び学校において事態が一挙に表面化し、このような事態に十分に対応する余裕がないままに、逃げ場のない状況に陥って、その打開又はそれよりの逃避の方法として死を選んだものと推定するほかない。また、太郎の遺した遺書からは、和雄及び仁一を加害者と規定し、自らを被害者と位置付けて、犠牲となって死を選ぶという子供の自殺によく見られるといわれる自己顕示の願望や自己愛的傾向、主観的な自己完結性を志向する太郎の性格特性が看取される。

2  ところで、原告らは、本件グループをいわゆる「突っ張りグループ」として当初からあたかも危険集団であったかのように規定し、太郎はその意思に反して一方的にこれに取り込まれて、いじめを受けていたものであるかのように主張し、また、被告中野区は、当時生徒間のいじめが大きな社会問題とされ、それが生徒の登校拒否や非行の原因となり、時には自殺という事態さえ招来するとされていたにもかかわらず、いじめの根絶のための抜本的な対策を講じることなく放置して、太郎を自殺に至らせたものであるとする。

しかしながら、先ず、本件グループでは、必ずしもある者が行動の指揮をとり他の者がこれを追従するとか、上下又は支配・服従といった構図があった訳ではなく、前記認定事実によれば、右グループの生徒らは、互いに申し合わせて行動を起こすというよりは、個々の者が自身の判断で行動し、居合わせた場で行われたことについては、他の者もただ傍観するのではなく加担又は加勢することが多かったという方が適切であって、むしろ気の合った遊び仲間という方がより実態に近いということができ、また、直ちにこれを原告らが主張するようないわゆる「突っ張りグループ」であるとか「番長グループ」であると評価することは必ずしも相当ではない。

また、太郎が本件グループの生徒のためにいわゆる使い走りをする姿は、外部的には使う者と使われる者、強者と弱者の関係として映り勝ちであるけれども、<証拠>によれば、太郎自身は、当時決して右のような役割を演じることを重荷としては受け止めておらず、また、太郎も、当時、両親の離婚や父親の折檻などの家庭の事情についての悩みを度々高橋、和雄、仁一らに打ち明けるなどし、仁一や高橋も、遠足の際に太郎の分の弁当も用意してやったり、帰宅したくないと言う太郎に付き合って一緒に外泊してやるなどしているのであって、そこには友人間の心情の交流もみられたことが認められ、また、本件グループの一部の生徒は、その結成したバンドの名前に太郎の苗字をとって「ザ・丙沢」と命名するなどしているのであって、ここにも本件グループの性格やそこでの太郎の役割ないし位置付けを看取することができるのである。

したがって、本件グループを当初から危険集団であったかのように規定したうえで、太郎がその意思に反して一方的に右グループに取り込まれ、当初からいじめを恐れて不本意ながらも右のような役割を演じていたかのようにいう原告らの主張は、一面的に過ぎるものといわざるを得ない。むしろ、「そこで使い走りをさせられることについても、彼は喜んでやっていたはずである。一定のグループ内で一定の役目を持つことは、彼にとって一つの社会参加の方途である。それは認められ、励まされ、与えられ、成果が見えるという点で、非常に機能的であり、少なくとも彼は、それ自体は当初から苦痛ではなかったはずである。人のためになること、グループ内でのためになること、人に喜ばれることは、彼のようなタイプの子には嬉しく、充実したものと思えたはずである。いや、もっとはっきり言えば、そうすることが大切であり必要であり、自分とグループの人との関係を持つ上で重要だということを見抜き、それを自らに課し、役目を果たすことを自分に義務づけていたということである。」(<証拠>・国語作文教育研究所長宮川俊彦著「このままじゃ生きジゴク―丙沢太郎君(中野富士見中)死のさけび―」)とする見方も十分に成り立ち得る。

3  同様に、原告らが本件グループによる太郎に対するいじめであると主張する出来事のうち昭和六〇年一二月頃までのものの実態は、いずれも前記認定のとおりのものであって、その具体的態様、当時における本件グループと太郎との関係等に照らして判断すると、これらはむしろ悪ふざけ、いたずら、偶発的なけんか、あるいは、仲間内での暗黙の了解事項違反に対する筋をとおすための行動又はそれに近いものであったとみる方がより適切であって、そこには集団による継続的、執拗、陰湿かつ残酷ないじめという色彩はほとんどなかったものということができる。

これらのうちで、特にいわゆる「葬式ごっこ」については、太郎の死後にその死をいじめによる自殺という観点からとらえる一連の報道の中ではじめて表面化し、教師までが加担していたとして非常に陰湿な出来事であるかのように一般には報道された(<証拠>参照)けれども、太郎が当時これを自分に対するいじめとして受け止めていたことを認めるに足りる証拠はなく、かえって、前記認定事実に照らせば、ひょうきん者で前記のような性格特性の持主であった太郎としては、このような悪ふざけの対象としてクラスの注目を浴びることに面映ゆさを感じたであろうことさえ窺われるのである。教師らが右のような生徒らの悪ふざけに参画したことについては、教育実践論上は賛否両論がみられるけれども、いずれにしてもひとつのエピソードであるに過ぎないのであって、これを太郎の自殺と直結させて考えるのは明らかに正当ではない。

したがって、昭和六〇年一二月頃までの状況に着目する限りにおいては、本件グループと太郎との交遊関係あるいはそこで本件グループの生徒らが太郎に対してとった諸々の行動は、原告らが主張しあるいは当時社会問題のひとつとされていたような典型的・構造的ないじめの事例であったとみることは、必ずしも当を得たものであるとは解されないのである。

確かに、藤崎担任その他の中野富士見中学校の一部の教員等は、本件グループの問題傾向や太郎に対する前記のような言動を概ね認知していたか又は認知し得べき状態にあったことは否定できないところであって、これにつき、原告らは、中野富士見中学校の教員等はいじめの現場を目撃した場合においても、いじめられた太郎をなぐさめ、いじめた生徒らに対してひととおりの注意を与えるにとどまって、いじめの根絶のための抜本的な対策を講じなかったとして非難するけれども、仮に本件グループの生徒らが太郎に対してとった態度や行動が広い意味でのいじめに当たるとしても、それらの態度や行動の具体的態様、当時の本件グループと太郎との関係、先に指摘したような生徒間のいじめの不可視性などの一般的事情等に照らすと、同校の教員等として、同年一二月頃までの段階においては、その後事態が昭和六一年一月八日から同月三〇日にかけての一連の出来事のように展開して、太郎が自殺するに至ることを一般的な危険性又はひとつの可能性ということを超えて具体的に予見することは、およそ不可能であったものというべきである。原告らの右の主張は、少なくとも昭和六〇年一二月頃までの状況に限っていえば、結局、いじめへの問題傾向を示す生徒の教育指導が効を奏さずいじめを防止できなかったということの一事から、学校当局者の安全保持義務違背の責任を問うに等しいものであって、学校教育の課題ないしその成果の有無ということと安全保持義務への違背とを混同するものといわざるを得ない。

以上のとおりであるから、いずれにしても、同年一二月頃までにおける本件グループの生徒らと太郎との間の問題状況に対する中野富士見中学校の教員等の対応に関する限りでは、そこに安全保持義務への違背があったとする余地はない。

4 これに対して、同年一二月頃以降における本件グループと太郎との間の問題状況又はこれに対する中野富士見中学校の教員等の対応については、別途の考察を必要とする。

すなわち、同年一二月頃以降においては、太郎が本件グループから離脱しようとするにつれて、本件グループの生徒らの中にも太郎を無視し仲間外れにしようとする気運が生じその動きが強まるなどして、本件グループと太郎との関係に重要な変化が生じ、本件グループの一部の生徒らが太郎に暴行を加えるようなことも多くなって、その態様も単なるいたずらとか偶発的なけんかという域を超えたものとなってきたのであるが、これに伴って、太郎の勤怠状況にも変化が生じ、同月一八日から同月二四日まで連続して六日間欠席するなどし、また、原告三郎は、太郎が受けた暴行等につき被告甲野らに抗議するなどし、保護者間においてもそれがひとつの紛議の的となっていたのであって、本件グループと太郎との関係の右のような重要な変化は、関係生徒の学校生活及び家庭にも具体的に顕現していたものである。

したがって、藤崎担任その他の中野富士見中学校の教員等としては、よりきめ細かく生徒らの生活実態を観察し、生徒らの動向や問題の所在の早期発見に努めるという姿勢で対処していれば、本件グループと太郎との従前の関係になんらかの重大な変化が生じ、そこに深刻な事態が進展しているのではないかを疑うことができたものということができ、これを契機として早期に太郎や関係生徒らから事情を聴取することなどによって、右のような事態の変化を把握することができ、特に太郎が斎藤らの新たな友人との交遊を持つことになったことをめぐって本件グループの生徒らと太郎などとの間で重要な暴行事犯等が発生するのではないかとの懸念を持ち得たはずである。そして、右教員等は、本件グループの右のような動きが交遊グループからの離脱を暴力をもって封じるという子供社会にあっても本来許されてはならない反民主的なことであることに照らしても、右の段階において、関係生徒に対する個別的な指導・説諭による介入・調整、保護者との連携による対応、警察への援助要請等の措置を講じるべきだったのであり、それによって本件グループと太郎との関係の改善を図り、昭和六一年一月八日から同月三〇日までの間の本件グループの生徒らによる太郎への暴行等の事件の発生を阻止することができたはずである。

原告ら及び被告甲野らは、この間、本件グループの生徒らが太郎に加えた暴行等について具体的に認知していながら、単に激しく抗議したり感情的な対応をするにとどまって、一切学校との連絡、協議等をすることもなく、それぞれの子弟に対してなんら有効な教育的な手だてを講じなかったことは大いに責められるべきではあるけれども、他方、中野富士見中学校の教員等としても、本件グループと太郎との動向の把握を怠り、藤崎担任において、昭和六〇年一二月下旬頃、保護者会や保護者面談に一切出席しない原告らの自宅に赴きながら、事情を告げられるのを恐れる風の太郎の姿をみて、原告らと十分な懇談をしないままとするなどの消極的な対応に終始していたのであって、その責めを十分に果たしたものとはいえない。

以上のような意味と限度において、中野富士見中学校の教員等には、太郎に対する身体への重要な危険又は社会通念上許容できないような深刻な精神的・肉体的苦痛を招来することが具体的に予見されたにもかかわらず、過失によってこれを阻止するためにとることができた方策をとらなかったものとして、安全保持義務への違背がある。

5 もっとも、このように中野富士見中学校の教員等に右のような安全保持義務への違背があるということと太郎の自殺による死亡につき被告中野区ひいては被告東京都に責任があるかどうかということとは別個のことであって、そのためには、中野富士見中学校の教員等として、太郎が前記のような経緯で自殺するに至ることを予見し回避することができたかどうかが検討されなければならない。

中野富士見中学校の教員等は、前記のとおり、既に昭和六〇年一二月又は昭和六一年一月八日以前に本件グループと太郎との従前の関係に重要な変化が生じているのではないかということや右グループの生徒らと太郎などとの間で暴行事犯等が発生する恐れがあることを認識することができたはずであるほか、芦澤教諭、藤崎担任又は手塚教諭等は、同年一月八日から同月三〇日の間において本件グループの生徒らが太郎に加えた暴行やその他の言動の一部を目撃し、太郎の同月三〇日における様子を把握していたものであり、また、太郎は、この間に異例に長期間にわたって欠席し、その都度自ら通院のために欠席するなどといった不自然な電話連絡をするなどしていたものであることは、前記認定事実のとおりである。これらの事実からすれば、中野富士見中学校の教員等としては、当時太郎が深刻な苦悩に陥っているのではないかを容易に疑うことができたはずである。

しかしながら、いかに一中学生の自殺であるとはいえ、それが一個の人間の意図的行為であることには変わりはなく、その最後の一瞬におけるまでその者の意思に依存するものである。そして、人がいかなる要因によって自殺への準備状態を形成し、それとの相関的な関わりにおいて何を直接的な契機として自殺を決行するに至るかの心理学的・精神医学的な機序(潜在的な準備状態の如何によっては、第三者からみればごくささいなことで、およそ自殺の原因となるとは思われないようなことを直接動機として自殺を決行するなど、両者の間には相関的な関係があるとされている。)は、外部的にはおよそ不可視であって、明白に自殺念慮を表白していたなど特段の事情がない限り、事前に蓋然性のあるものとしてこれを予知することはおよそ不可能であるといわなければならない。もちろん、学校当局者としては、生徒の自殺徴候の迅速正確な発見に努め、その防止のために万全の措置を講じるべきことはいうまでもないけれども、それはあくまでも一般的な可能性・危険性の予測に立って可及的に事故の発生を防止すべき教育行政上の課題としてのことであって、事故の発生後における損害賠償責任の存否をめぐっての法的判断としての予見可能性あるいは相当因果関係の有無の問題とはおのずから次元を異にすることである。

これを本件についてみても、右に指摘したような一般的な事情に加えて、本件事案は、先にいじめの不可視性として指摘したところがそのまま妥当するような事実に関するものであって、太郎が本件グループとの関係につきどのような心理的・精神的反応を示していたかを外部から判断することは著しく困難であり、また、他に太郎が明白に自殺念慮を表白していたなどの特段の事情もみられないのであって、右のような意味での予見可能性ないし相当因果関係の有無の問題としてみる限り、中野富士見中学校の教員等として、太郎の自殺を予見することができなかったものと解するのが相当である。

6 以上のとおりであるから、中野富士見中学校の教員等には、昭和六一年一月八日から同月三〇日までの間の本件グループの生徒らによる太郎への暴行等の事件の発生を阻止することができなかったという限度において安全保持義務への違背があるとともに、それを超えて、太郎の自殺を阻止し回避することができなかったことについてはなんらの責めもないものというべきである。

したがって、被告中野区は国家賠償法一条一項の規定に基づき、また、被告東京都は同条同項及び同法三条一項の各規定に基づき、太郎が昭和六一年一月八日から同月三〇日までの間の本件グループの生徒らによる太郎への暴行等によって被った精神的苦痛に対する損害を賠償すべき責任があるものというべきである。

他方、本件グループの生徒らによる太郎への暴行等の前記のような程度・態様等に照らすと、原告らは、被告中野区及び同東京都に対して、未だ太郎の父母としての精神的苦痛に対する固有の慰藉料を請求し得べき限りでないことはいうまでもない。

第三被告甲野ら及び同乙川らに対する請求について

一次に、原告らは、被告人甲野ら及び同乙川らが和雄又は仁一の共同親権者としてその各監護教育義務を怠ったとして、同被告らに対して、太郎が自殺したことによる同人の損害及び原告らの損害の賠償を求める。

しかし、和雄及び仁一は、当時中学校二年生であったものであって、当然責任能力のなかったものということはできないから、ここで問題となる被告甲野ら又は同乙川らの責任は、民法七一四条の定める法定監督義務者の責任とは異なって、右各未成年者の親権者としての義務違反と各未成年者の不法行為によって生じた結果との間に相当因果関係を認めることができる場合にその限度において、民法七〇九条の規定に基づき、その損害を賠償すべきものであるにとどまるのであって、一般的に監護教育を怠ったとか、監護教育の実をあげることができなかったということから直ちにその責任を負うというものではない。

そして、ここでも、公立学校の設置者の安全保持義務について述べたところと同様に、子供は、その交遊関係その他の子供社会における体験を通して自我を確立し、社会の価値や規範を体得して社会化を遂げていくものであることが重視されなければならないのであって、おのずから巷間にいわゆる「子供のけんかに口を出す」べきではなく、子供の自律に委ねられて然るべき一定の領域が存在することを認めざるを得ず、結局、ここでも、未成年者の親権者は、当該未成年者の年齢、性別、性格、その他の具体的状況に照らして、そのまま放置したのでは他人の生命若しくは身体への重要な危険又は社会通念上許容でないような深刻な精神的・肉体的苦痛を及ぼすことが具体的に予見されるにもかかわらず、故意又は過失によって、それを阻止するためにとることのできた実効的な方策をとらなかったとき、監督義務を怠ったものとして、それによって生じた損害を賠償すべき責任があるものというべきである。

もっとも、父母たる親権者は、子供の性格、心身の発達状況、行動様式等について最もよく知り得る立場にあり、それだけその行動を予測することも容易であるのが通常であるうえ、その生活関係全般にわたって行動を規制することができる立場にあって、子供が他人に危害を加えるおそれがある場合において、それを阻止するためにとることのできる方策も多いのであるから、その負うべき監督義務の範囲は、学校設置者の負う安全保持義務に比較して、決して低かったり狭かったりするものではないというべきである。

二以上のような観点にたって、被告甲野ら及び同乙川らの責任について検討すると、被告甲野ら及び同乙川らにおいては、前記認定のとおり、既に昭和六〇年一二月頃までに藤崎担任等から和雄又は仁一の問題行動等について連絡を受けるなどし、特に被告甲野らにおいては、原告三郎から和雄が太郎に暴行を受けたとして抗議を受けるなどしていたのであるから、これらの事実と前記の一連の事実経過を併せ考えると、起居を共にしていた父母としては、当時における和雄及び仁一を中心とする本件グループと太郎との交遊関係の実情を知り又はこれを契機として和雄又は仁一から立ち入って事情を聞くなどすることによってこれを知り得たものというべきであり、また、そのような前提にたって日頃からきめ細かく和雄又は仁一の動静を継続的に観察していたとすれば、本件グループの生徒らが昭和六一年一月八日以降右グループから離脱しようとする太郎に対して暴行等を加えるなどし、その結果、同人を深刻な苦悩に陥れることのあり得べきことを予見することができたものと認めるのが相当であり、また、その段階において、父母としての適切な方策を講じることによって有効にこれを阻止することができたものと解するのが相当である。

他方、被告甲野ら及び同乙川らとして、太郎がこれを原因として前記のような経緯によって自殺を図ることを予見することができなかったものと解すべきことは、被告中野区及び同東京都について説示したところと同様である。

三したがって、被告甲野ら及び同乙川らは、和雄及び仁一を中心とする本件グループの生徒らが昭和六一年一月八日から同月三〇日までの間に太郎に加えた暴行等を予見しこれを回避することができたにもかかわらずこれを怠った点に親権者として尽くすべき監督義務の違背があるものというべきであって、民法七〇九条、七一九条の規定によって、太郎がこれによって被った精神的苦痛に対する損害を賠償すべき責任があり、また、原告らが被告甲野及び同乙川に対して太郎の父母としての精神的苦痛に対する固有の慰藉料を請求し得べき限りでないことは、被告中野区及び同東京都に対する請求に関して述べたとおりである。

第四損害賠償額について

一先に説示し認定したような和雄及び仁一を中心とした本件グループの生徒らが太郎に加えた前記のような暴行等の態様、動機及び経過、これに対する太郎の対応の仕方等、被告中野区の職員たる中野富士見中学校の教員等、被告甲野ら及び同乙川らの義務違背の程度、太郎の父母としての原告らの家庭環境及び太郎に対する監護、教育、監督の在り方、その他、前記認定のとおりの事実経過の一切に照らして、太郎の前記精神的苦痛に対する慰藉料の額としては、三〇〇万円をもって相当とする。

また、本件事案の性質、審理の経過及び結果、その他の事情に照らし、原告らが本訴の提起・追行を委任した原告ら訴訟代理人弁護士らに対して負担すべき弁護士費用のうち各五〇万円について、相当因果関係のある損害として被告らに連帯して負担させるのが相当である。

なお、被告らは、抗弁として太郎自身又は原告らに存した過失をもってする過失相殺の主張をするけれども、これらの事情は、それのみを取り出して過失相殺の対象にするのは相当ではなく、前記のとおり、慰藉料額の算定に際しての一斟酌事由として考慮するのが相当である。

二以上のとおりであるから、被告ら各自は、民法七一九条一項の規定により、太郎の死亡によってその財産上の一切の権利、義務を相続によって承継した原告らそれぞれに対して、慰藉料各一五〇万円及び弁護士費用各五〇万円及びこれらに対する不法行為後の昭和六一年二月二日から支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払う義務があることになる。

第五結論

よって、原告らの被告らに対する本訴請求は、右の限度で理由があるから認容し、その余の請求はいずれも失当であるから棄却することとし、訴訟費用の負担については、民事訴訟法八九条、九二条及び九三条の各規定を適用して、主文のとおり判決する。なお、仮執行の宣言の申立については、相当ではないから、これを付さない。

(裁判長裁判官村上敬一 裁判官小原春夫 裁判官徳田園恵)

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